都合が良すぎではないのか

こんばんは、ミュウです。

仕事が終わりません。
これから徹夜して仕事をします。
日曜日なのに……給料なんて出ないのに……

さて、今回の問題は子どもの精神的な問題についてです。

ネットニュースで、山口県の小中学校の授業で「トロッコ問題」と呼ばれる題材を扱い、小学校児童の保護者がクレームを入れて学校側が謝罪する問題があったという記事を見ました。
「トロッコ問題」とは、次の問題です。

自分はブレーキのきかないレバー付きのトロッコに乗っています。
線路の先は二股に分かれていて、一方の線路の先には5人が横たわり、もう一方の線路の先には1人が横たわっています。
このまま何もしなければ5人が轢かれて死んでしまいますが、トロッコに付いているレバーを引くと線路が切り替わり、5人が助かる代わりに1人が轢かれて死んでしまいます。
あなたならどちらを選びますか?


という問題です。
保護者からのクレームというのは、この問題を扱ったところ、児童が「授業で不安を感じている」と訴えたという申し出で、アンケートをとったところ、他の児童の中にも数名が不安を訴えたそうです。
(「児童」という表現であることから、中学生でこのような訴えをした子どもはいないと思われます。)

まず、この記事の本題に入る前に、学校側の明らかな落ち度だけ書いておきましょう。
この授業は、山口県が今年度から始めた「心理教育プログラム」という授業で、スクールカウンセラーが担当していたそうです。
このスクールカウンセラーが担当する授業は、学校側は事前に協議・確認してから行うとされていたのだそうですが、その協議や確認を怠ったそうです。
その点は明らかに問題でしょう。

では、本題です。
この「トロッコ問題」ですが、人数は違えど、どうやっても自分の判断によって人の命を奪うことになります。
正しい答えはありません。
そこが子どもたちには酷であるということなのでしょうが、授業ではこの問題に対する答えを子どもたちに求めず、「困ったときに助けを求める」という趣旨の授業であったとされています。

ネットニュースの記事内では、「保護者が小学校や市の教育委員会に説明を求めた」とされていますが、このような場合、ただ説明を求めたということは稀で、
「ウチの子が学校の授業で不安になったじゃないか!」
「どうしてそんなことをしたんだ!」

などというクレームであることがほとんどです。
(そのため、この記事ではあえて「クレーム」と書きました。)
つまり、「子どもたちにこのような問題を突きつけることが不適切である」と言いたいのです。

では、本当に学校の授業でこのような問題を扱うことが不適切なのでしょうか?
私は、むしろ積極的に扱うべきだと思います。
もし私が学校の教員で、このような問題を扱いたいとスクールカウンセラーから相談があったら、私は賛成するでしょう。
(この小学校でも、協議・確認を怠ったことに対しては謝罪があったそうですが、この問題を扱ったことに対して謝罪したという記述はネットニュースの記事内にはありませんでした。)

その理由ですが、まず、この問題には正しい答えがありません。
これから成長していくと、そのような正しい答えのない問題にぶつかることは多くなっていくでしょう。
しかし、大人たちや学習塾の洗脳によって、成績や偏差値などの数字にしか価値を感じない子どもたちが非常に多く、正しい答えを出すことばかりに考えが偏っているのです。
そのような子どもたちに、このような正しい答えのない問題を考えさせるのは非常に良いことだと思います。

次に、この問題が他の答えのない問題と決定的に違う点は、自分の責任によって誰が死んでしまうかを決めなければならないという責任を負うことです。
このような責任は、子どもたちにとって精神的負担になるでしょう。
しかし、嫌なことから逃げ、甘やかされて育つ子どもが多くなっていて、精神的に弱い子どもも増えています。
そのような子どもたちには、どこかで精神的に負荷をかけて精神的に強くしなければなりません。
その機会として授業内でトロッコ問題を扱うことは、私は問題があるとは思えません。

そして最大の理由が、命を考え直すきっかけになるということです。
以前の記事「命の重さ」に書いたように、学校であっても、「死ね」「殺す」などという汚い言葉が平然と飛び交っているのです。
私の経験や私の知人から聞いた話の範囲ではありますが、そのような汚い言葉を聞かずに済む学校・クラスはそこまで多くないように感じます。
そのような命を軽々しく考えている子どもたちに、「自分の行動によって人が死んでしまう」という状況を考えさせることは、非常に大切なことだと思います。

そして、これに関連するのですが、私は不安に感じたという子どもたちやクレームを入れた保護者に疑問を感じます。
自分の判断で人が死んでしまう、人の運命を左右するという責任を負うことに対しての精神的負担が不安にさせたというのであれば、上記のように「死ね」「殺す」という言葉が子どもたちの口から発せられたときに同様の反応を示したのでしょうか?
同様の反応どころか、トロッコ問題のような架空の話ではなく、目の前の同級生が死んでしまうかもしれない、人を殺すかもしれないという不安の方が、よっぽど現実味があって不安にさせるはずなのです。
日頃から「死ね」「殺す」などという言葉を発しない子どもたちに囲まれて育ってきた子どもならこの反応もまだわかるのですが、そのような言葉を普段から聞いているのに平然と聞き流し、あるいはその子自身も発しているのであれば、自分が責任を負わなければならないときだけ不安だと訴えるのは、私は都合が良すぎではないかと思います。
それならば、命の重さについて考え直し、そのような言葉を発することの意味をきちんと理解するでしょうから、むしろ不安にさせた方が良いでしょう。
この保護者も、自分の子どもがこのような都合の良いときだけ不安を訴えているということ、安易に責任から逃れようとしているのだということをきちんと把握しておくべきだと思います。


クレームを入れた保護者に疑問を感じたのは、以前の記事でも書いた、このようなクレーマーを相手にした経験があるという知人の話を思い出したからです。
「『死ね』などという汚い言葉を注意しないなんてあり得ない!」とクレーマーの保護者が怒鳴り散らし、その問題を放置していた社員が保護者と一緒になって、その問題をずっと注意していた知人が悪者にされたという話です。
そのような汚い言葉を発しているのは、そのクレーマーの保護者の子どもとその友達なのに。
その保護者が家庭できちんと躾をしていないからこんな問題が起こっているのに。

そんな聞いているだけで気分が悪くなるオチだったので、つい思い出してしまい、このケースと似ているのではないかと思って疑問を感じてしまいました。


ちなみに、このトロッコ問題ですが、いろいろな考え方があります。
人数だけで死んでしまう人を選んで良いのか、1人を死なせてしまって良いのかというところがこの問題の難しいところですが、多くの方が、「死んでしまう人が必ず出てしまうのであれば、5人より1人で済む方が被害が少ない。」と考えてレバーを切り替える方を選ぶかもしれません。
他に決め手がないので、私もレバーを切り替えて1人が死んでしまう方を選ぶと思います。
しかし、
「レバーを切り替えてしまえば、1人の死の責任は自分が負わなければならないが、レバーを切り替えずに放置すれば、自分は何もしていないのだから5人の死は自分の責任ではない。」
という責任放棄論でそのままを選ぶ方もいるそうです。
(レバーを操作しないことを選択した責任を感じてしまうので、私にはそんな考え方はできそうにありません。)
また、誰も死なずに済む方法を考えた方もいます。
線路を切り替えるレバーを途中で止めると、切り替わる部分が二股のどちらにも繋がらず、トロッコが脱線して止まる、とのこと。
線路の切り替え部分の仕組みを使った、誰も死なずに済む方法ですね。
しかし、「何もせずに5人を死なせてしまうか、自分の判断で5人を助ける代わりに1人を死なせてしまうか。」という選択を迫ることが趣旨の問題ですから、このトロッコ問題の回答としては認められないでしょうね。
それでも、知恵を使ってどうにか全員助けられないかと考えた結果でしょうから、素晴らしい回答だと思います。


「レバーをそのままにして5人が死んでしまう」
「線路を切り替えて5人を助ける代わりに1人が死んでしまう」


皆さんはどちらを選びますか?



それでは今回はこれで失礼します。

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